はじめに
従業員のスキル、勤怠、評価、コミュニケーション、配置履歴などを分析し、人材配置や育成、離職防止に役立てる「ピープルアナリティクス」が広がっています。
人事担当者の経験だけに頼らず、組織の状態を客観的に把握できる点は大きな利点です。一方で、分析対象となるのは従業員個人の働き方や評価、健康状態などです。運用を誤れば、プライバシー侵害や不公平な評価につながり、従業員の不信感を招く可能性があります。
重要なのは、データを集めてから利用方法を考えるのではなく、導入前に「何のために、どのデータを、誰が、どこまで利用するのか」を設計することです。
本記事では、ピープルアナリティクスを安全かつ継続的に運用するための個人情報保護と組織ガバナンスの実務ポイントを解説します。
ピープルアナリティクスとは何か
ピープルアナリティクスとは、人事・労務に関するデータを統計的に分析し、人材配置、採用、育成、離職防止、組織改善などの意思決定に活用する取り組みです。
分析対象には、次のようなデータが含まれます。
- 年齢、所属、役職、勤続年数
- 保有資格、研修履歴、業務経験
- 勤怠、残業時間、有給休暇取得状況
- 人事評価、目標達成状況
- 異動、昇進、退職などの履歴
- 従業員アンケートやエンゲージメント調査
- 社内システムの利用履歴
- 健康診断やストレスチェックに関する情報
複数のデータを組み合わせれば、「どのような経験を持つ人材が活躍しやすいか」「離職につながりやすい組織上の要因は何か」といった傾向を把握できる可能性があります。
ただし、相関関係が確認できても、それが直ちに因果関係を示すわけではありません。分析結果を自動的に人事評価や配置へ反映するのではなく、人が背景を確認し、複数の情報から判断する必要があります。
ピープルアナリティクスで個人情報保護が重要な理由
従業員データは個人の評価や処遇に直結する
顧客データの分析と比べて、従業員データの分析には特有の難しさがあります。
従業員は、会社から提示されたデータ利用に対して、立場上、明確に反対しにくい場合があります。形式的に同意を取得したとしても、従業員が不利益を恐れず自由に判断できたかという問題が残ります。
そのため、法令上の同意が必要かどうかだけで判断するのではなく、次の点を説明できる状態にすることが重要です。
- 収集するデータの種類
- 分析を行う目的
- 分析結果の利用方法
- 評価や処遇への影響
- データを閲覧できる担当者
- 保存期間と削除方法
- 問い合わせや異議申立ての窓口
複数データの組み合わせで新たな推測が生まれる
一つひとつは一般的な人事情報でも、勤怠、システム利用履歴、アンケート結果などを組み合わせると、本人が明示していない状態を推測できる場合があります。
例えば、ログイン時間、会議参加状況、休暇取得状況を組み合わせることで、働き方や健康状態、離職可能性などを推定するケースです。
個人情報保護委員会は、本人に関する行動や関心などを分析する場合、どのような分析を行い、その結果を何に利用するのかを、本人が合理的に予測できる程度に具体化する必要があると示しています。個人情報保護委員会「個人情報保護法ガイドライン(通則編)」
したがって、利用目的を単に「人事管理のため」「サービス向上のため」とするだけでは不十分になる可能性があります。
ピープルアナリティクスで扱うデータを分類する
安全な運用の第一歩は、収集する人事データを法的性質とリスクに応じて分類することです。
一般的な人事情報
氏名、所属、役職、勤続年数、研修履歴、評価結果などは、通常、個人情報または個人データとして管理します。
利用目的をできる限り具体的に特定し、必要な範囲を超えて利用しないことが基本です。
「人材育成のため」だけでなく、「保有スキルと業務経験を分析し、研修提案と社内プロジェクトの候補者選定に利用する」など、従業員が利用場面を想像できる表現が望まれます。
健康情報・要配慮個人情報
病歴、健康診断結果、診療に関する情報などは、要配慮個人情報に該当する場合があります。法令に基づく取得などの例外を除き、要配慮個人情報の取得には原則として本人の同意が必要です。
また、法律上の分類だけでなく、従業員に不利益や差別が生じる可能性を考慮し、健康に関する情報は特に慎重に扱う必要があります。
厚生労働省の留意事項では、健康情報の利用目的、取扱者と権限、開示・訂正・削除、苦情処理などを社内規程として整備することが求められています。詳細な医学情報については、必要に応じて産業保健業務従事者が適切に加工したうえで、人事部門へ提供することも重要です。厚生労働省「雇用管理分野における健康情報の取扱い」
ストレスチェックの個人結果を、本人の同意や適正な手続きを経ずに人事評価へ利用するような運用は避けなければなりません。
行動履歴・システム利用ログ
入退室記録、PCのログイン履歴、アプリの利用時間、チャットの送信状況なども、個人と結び付く場合は個人情報として管理する必要があります。
セキュリティ管理を目的に取得したログを、生産性評価や勤務態度の判定へ流用すると、当初の利用目的を超える可能性があります。
「取得できるから分析する」のではなく、業務上の必要性と従業員への影響を確認し、収集範囲を最小限に抑えることが重要です。
仮名加工と匿名加工の違いを理解する
人事データから氏名や社員番号を削除しても、それだけで匿名データになるとは限りません。
所属、役職、年齢、勤務地、入社年などを組み合わせれば、特定の従業員を推測できる可能性があるためです。
仮名加工情報は、他の情報と照合しない限り個人を識別できないように加工した情報です。一方、匿名加工情報は、個人を識別できず、元の個人情報を復元できないように加工した情報を指します。両者には異なる加工基準と取扱義務があります。個人情報保護委員会「仮名加工情報・匿名加工情報編」
社内分析で仮名加工情報を利用する場合は、対応表を分析環境から分離し、アクセス権限を限定するなどの措置が必要です。
少人数の部署については、集計結果だけでも個人が推測される可能性があります。そのため、一定人数未満の集計結果を表示しない、自由記述をそのまま共有しないといった再識別防止策も検討します。
ピープルアナリティクスの利用目的を具体化する
利用目的は、できるだけ広く書くのではなく、分析によって従業員本人や組織にどのような効果を生み出すのかを明確にします。
適切な利用目的の例として、次のようなものが考えられます。
- 従業員のスキルと経験を分析し、研修機会を提案する
- 業務負荷の偏りを把握し、長時間労働の防止に活用する
- 職場環境と離職傾向の関係を分析し、組織改善に役立てる
- 社内プロジェクトに必要なスキルを持つ人材を把握する
- キャリア面談で本人へ成長機会を提示する
一方、「働き方を監視する」「従業員を順位付けする」「AIのスコアだけで昇進や退職勧奨を決める」といった運用は、従業員の信頼を損ない、分析に必要なデータの正確性まで低下させるおそれがあります。
分析結果は、従業員を一方的に管理するためではなく、本人へのフィードバックや職場改善に還元することが重要です。
AIによる人事評価では公平性を検証する
AIや統計モデルを使用する場合、過去の人事データに含まれる偏りが、分析結果に引き継がれる可能性があります。
例えば、過去に特定の属性の従業員が管理職へ登用されにくかった場合、そのデータを学習したモデルが、同様の傾向を「望ましい判断」として再現することがあります。
分析前後には、次の項目を確認します。
- 特定の属性に不利益が集中していないか
- 学習データに過去の評価上の偏りがないか
- 分析結果の根拠を担当者が説明できるか
- 不正確なデータを本人が訂正できるか
- 最終的な人事判断に人が関与しているか
- 従業員が異議を申し立てられるか
AIの精度だけでなく、判断過程の説明可能性と修正可能性を確保することが必要です。
クラウドサービスと分析委託先を管理する
ピープルアナリティクスでは、クラウド型の人事システムや外部の分析サービスを利用することがあります。
個人データの取扱いを外部へ委託した場合でも、委託元企業の管理責任がなくなるわけではありません。個人情報保護委員会は、適切な委託先の選定、契約の締結、取扱状況の把握など、必要かつ適切な監督を求めています。個人情報保護委員会「委託先を監督していますか?」
契約前には、少なくとも次の点を確認します。
- データの保存場所
- アクセス権限と認証方法
- 通信時・保存時の暗号化
- 再委託先の有無と管理方法
- 契約終了時の返却・削除方法
- セキュリティ事故発生時の連絡期限
- 監査や報告を求める権利
- データをサービス改善やAI学習に利用するか
- 国外へデータが移転される可能性
標準利用規約を確認するだけでなく、個人データの取扱いに関する覚書やセキュリティ条項を整備し、導入後も定期的に監督することが重要です。
組織が整備すべきデータガバナンス
データのライフサイクルにチェックポイントを設ける
人事データの取得から削除までを一つの流れとして管理します。
- 利用目的を設定する
- 必要なデータだけを取得する
- 法的根拠や同意の要否を確認する
- 保存場所とアクセス権限を決める
- 分析方法と公平性を検証する
- 分析結果の利用範囲を限定する
- 保存期間の終了後に削除する
新しいデータを追加する場合や、分析結果を別の人事施策へ利用する場合は、再度チェックを行います。
部門横断の審査体制をつくる
ピープルアナリティクスを人事部門だけで判断すると、人事上の有用性が優先され、法務、セキュリティ、労務、従業員への影響が見落とされる可能性があります。
人事、法務、情報システム、産業保健、経営層などで構成する審査体制を設け、必要に応じて従業員代表や外部専門家の意見を取り入れます。
高リスクな分析では、個人情報保護委員会が示すPIAの考え方を参考に、導入前にプライバシーへの影響を評価する方法も有効です。個人情報保護委員会「PIAの取組の促進について」
従業員が相談できる窓口を設ける
従業員が自分のデータの利用方法を確認し、不正確な情報の訂正や運用への異議を申し立てられる窓口を設置します。
制度を説明する際は、法律用語を並べるのではなく、具体的な分析例、利用しない目的、評価への影響を分かりやすく伝えることが重要です。
ピープルアナリティクス導入前のチェックリスト
- 分析の目的を従業員が理解できる言葉で説明できるか
- 目的に不要なデータを収集していないか
- 健康情報や要配慮個人情報が含まれていないか
- 既存データを別の目的へ流用していないか
- 閲覧権限が必要最小限に限定されているか
- 少人数の集計から個人が推測されないか
- AIモデルの偏りを検証しているか
- AIの結果だけで処遇を決定していないか
- 委託先や再委託先を把握しているか
- 保存期間と削除方法が決まっているか
- 従業員への説明と問い合わせ窓口があるか
- 事故発生時の報告・本人通知フローがあるか
漏えい等が発生した場合、不正アクセス、要配慮個人情報を含む事案、1,000人を超える事案など、一定の要件に該当すると個人情報保護委員会への報告と本人通知が必要になります。個人情報保護委員会「漏えい等の対応」

まとめ
ピープルアナリティクスの成否を左右するのは、収集するデータの量やAIモデルの高度さだけではありません。
重要なのは、利用目的を具体化し、必要なデータだけを収集し、分析結果を従業員本人の成長や職場環境の改善へ還元することです。
個人情報保護を「分析を妨げる制約」と捉えるのではなく、従業員が安心して正確な情報を提供できる環境をつくるための基盤として位置付ける必要があります。
利用目的、アクセス権限、委託先管理、公平性検証、従業員への説明、異議申立ての仕組みを一体的に整備することで、企業は人材データの価値と従業員の権利を両立しやすくなります。
コメント